ダイエット?

少し前に、あるあるで納豆騒動があった。
「納豆で、おいしくダイエット」だそうだ。

ダイエットに関連する商品は多い。
食べ物だったり、器具だったり。
だが、本当にそんな物が要るのだろうか?

ダイエットというのは、本当に苦しいものだと思う。
というのも、生活習慣から、最悪の場合性格までを変える必要があるからだ。
納豆食って痩せるとか、そもそも「食べて痩せる」なんてありえない。

美容を保つには食べないといけないかもしれないが、
おなかにたまるものは普通、脂質やたんぱく質が多い。
かといって炭水化物を抜いたりすると、おなかにたまらないので
常に何か平気そうな物を食ってる生活になりかねない。失敗だ。

最良で有効な手立ては、自分から体を動かすこと しかない。
それが既に生活習慣になっている人は太らないし、引き締まった体になる。

痩せたいけどそれができない人は、まず精神論的は話として
モノに頼る考え方を捨てたほうがいい。依頼心が失敗を暗示している。
そんな状態でダイエットを試しても、苦しい目にあって余計壁が厚くなる。

泣きながら何度も「もうだめ・・・だれかたすけて・・・」と嗚咽を漏らす。
それがダイエットの本来の姿。

そのつらさに「慣れる」と、常にダイエットしている状態になる。
すると自然に痩せた状態でいられる。

人の凄さは、その環境適応能力にあると思う。やりすぎると精神崩壊するが。
言い換えると、マゾにならないといけない。

生活を変える必要性
食べた満腹感でストレス紛らわす人は仕事か性格を変えないといけない。

俺が実際に痩せた方法(ダイエットではなく、結果的に痩せた方法)
日々、徐々に飯の量を減らしていき、腹が減ったら寝て、遊ぶ時間も寝る。
寝るのは実はかなりカロリー食うらしい。
ただ、筋肉が目に見えて衰えるので、体重は減っても素直に喜べない。
あと、たまに栄養失調になるため口内炎が頻発する。ミネラルとビタミン剤は欠かせない。
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WindowsVistaのUI

WindowsVistaのUIは、非常にリッチだが見易さが向上している。
リッチさと見易さの両立は、案外難しいものだ。

海外のGUIでは、国内よりもリッチさが重視される。
デフォルメされた表現よりもリアリティを好まれるからだ。
だが、明らかに逆に見難くなってしまっているUIも散見される。
ドライバや、各種マザーボードメーカのソフトに顕著だ。
大抵の場合、コントラストが高すぎて長時間見られる代物ではない。

そう、コントラストを低くしなければならないのだ。
そして鮮やかでも良いが、補色の積極的使用はまずい。

MacOSXの画面が滑らかで疲れにくいのは、ガンマが1.8だからだ。
Windowsは2.2で、ただでさえコントラストが高い。
パッと見、Windowsの方がくっきり鮮やかで美しい。
だがWindowsXPのテーマは、コントラストが高いから目が疲れてしまう。

Vistaは「透過とぼかし」という処理を用いることで
アンチエイリアシングを進め、コントラストを低く見せている。
しかしながら目立たせたいところはクッキリと艶をだす。
XPに比べ非常に目が疲れにくい。(緑色の多用は危険性を感じるが…)
OSXのUIの流れをハッキリと感じさせる手法に、
やっとGUIのあるべき姿が分かってきたかと思う次第である。

GUIとは、見た目だけでそのオブジェクトの種類や状態等を含む
複数の情報を一度で得られることに意味がある。
アラートに表示されるアイコンの違いにも意味があるのだ。
道路標識が沢山あるのと同じだと思ってかまわない。
そのアイコンの意図から、ユーザの判断を補うことに意義があるのだ。
GUIは初心者がとっつきやすいという理由はそこにこそある。

ユニコードへの1本化等、良くも悪くも、時代の流れである。

自分がつくりたいもの

製品を作る仕事は、設計者が設計するのだが
仕様は常に変更の危機にさらされる。

普通、仕様が決まらないと設計はできない。
だが、その設計後に以前とは間逆な仕様が決定することもある。
そうなると、多数の矛盾が生じて設計しなおしすることになるのだ。

この突然の仕様変更は、たいてい販売(営業)側の戦略によるもの。
たとえば、
この機能はもっと前面に押し出さないとライバル会社に負けるから とか
この機能つけないとライバル会社に客を取られるから とか。

本来、通常の思考では矛盾してできないはずのことが、できたほうがよいこともある。
車で言えば、アクセルとブレーキを同時に踏むような操作だ。
これは設計者としては絶対してほしくは無いのだが
客はそれをしたがる場合もある。そして仕様は変更される。

こういうものを作っているとき、それは自分の手を離れ遠い物に感じてくる。
さらにリリース日の2日前とかに仕様変更がきたりする。

だが、それでもクオリティをおとせない。信頼だから。
クオリティを落とさないために、無理なことは無理といわなければならない。
そのために納期が遅れ、多数の関連製品、数百人のスケジュールを遅らせても。

「技術者なんて代わりはいるのよ!」と、客や会社は思っていても
「使える技術者なんてそういないし、労働力も足りない」のが現場。

だから信頼を落とせばクビor仕事をもらえない。現場はさらにきつくなるだけ。
下流の仕事は結果に直結することを忘れてはならない。

おもしろいってなんだろう

俺が一番好きな”おもしろい”は、
できなかったことができたり、新しい物に触れたりして、
わくわくどきどきすること。

子供ころ、二重跳びが初めてできたときのうれしさ。
初めての道を、歩くときのドキドキ。
自分だけの宝物。

旅行は、現地よりも辿りつくまでの道のりが好き。
電車でお弁当。車窓から見える景色。これから何があるんだろう。
午前と午後なら、午前がすき。金曜日はハッピー。日曜日は鬱。

仕事に感じるおもしろさもこれ。
だから、同じ作業の繰り返しな仕事は向かない。

ゲームや漫画で得られる「おもしろおかしさ」では、
あとに虚しさが残るだけなんだよ。。。
そのときは楽しいのだけれどね。

髪が伸びて

2週間前
 前髪が、まぶたにチクチク刺さる。


 目にザクザク刺さる。
 ざくさく。

・・・いたい。

このサイトが面白い

分裂勘違い君劇場
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/
非常に考えさせられる内容。

歴史を学ぶ意味とはなんだろう。
歴史を学べば、過去の過ちは繰り返されないのだろうか?
私は、そうは思えない。過去の過ちを繰り返すのは、今そうする理由があるからだ。
今の問題の答えは、過去には無い。だからこそ問題になる。
その答えを導き出す能力がなければ、生きてゆけない。

生きてゆけない?

生きることとは、いやおうなしに競争することだ。
競争は、他人ともするが、自分とすることが多い。

自分との競争。

例えば、物事の判断をすること。
良し悪しの判断。正義、モラルやルールも、1000の人がいれば1000違う。
自分のとるべき行動は何が最良なのか。
今何をすべきか。人生の選択。就学、就職。結婚。
他人の意見に耳を貸すかどうか。

すべて、結果的に自分ひとりで決めること。自分でしか決められないこと。
誰かに強制的にそうさせられたとしても、本当はそうしたくなかったとしても
それに屈したからには、自分でそう決めたことと同じ。
少なくとも、自分以外の人からはそう見える。思われる。

競争は、弱者を壊し、実力あるものをより強大にする。
壊された弱者は行き場を失うかというと、そういうわけではない。
分相応の生き方になるだけ。
だから実力あるものは、実力ある生き方を強いられる。
弱者は弱者にできる範囲での生き方を強いられる。
どちらにしろ生きてるだけで努力は強いられる。

生きることはつらいことなのだろうか。

大抵の人は、自分が死ぬことなんて遠い未来のことだと思っている。
今から数分後に突然死するかもしれないなんて、まず考えない。
でも、生きている限り死は平等に訪れるし、それがいつかなんて決まっていない。
他殺・自殺・老衰・病死・事故。
少なくとも、この中で4/5は明日起きても不思議ではない。80%だ。8割の確率。
8割方、明日死ぬかもしれない。

生きていることが奇跡のようではないか。

奇跡の代償だと思えば何もつらくは無い。
だがこまったことに、人は生きることに飽きる。

私の場合、飽きたら部屋の掃除をする。
特に日曜の午後なんていつもだ。

いつもだ。

それでもボクはやってない

映画、「それでもボクはやってない」を見た。
この作品は、いわゆる痴漢冤罪のドキュメンタリー。
監督の視点、被害者の視点、弁護士の視点で構成されている。
デスノートのように非常に濃い作品で、そういう意味で面白かった。
見る価値がある、そう思える内容だった。

駆け引きなど無くて、社会と戦う感じだった。
デスノートのような、ハラハラとかは無い。
刑事、検察、司法のずさんさ、実情を訴えた作品だった。
マジで勉強になった。

あなたならどうだろうか、電車の中で、
自分のかばんが当たっていた事で痴漢と誤解されたとしたら。
その場で私人による現行犯逮捕。
何も知らされずに、自分に不利になるように仕向けられた取り調べ。
自分の言い分は全て嘘とされマトモに聞いてもらえない。
裁判官は敵。勝ち目の無い裁判。検察に捻じ曲げられそうな事実。
家にAV、エロ本があれば動機。

というか、痴漢の動機は「男である」ことで完結するらしいよ。
だから最初から不利なんだとさ。
罰金払って即釈放の方がラクだし社会的な損失は皆無。

痴漢は許されない行為だが、こういう時、男は損だ。
被害者が女性で、疑惑が痴漢なら、もう勝ち目は無いだろう。
事実を妄想で誇張したり、泣いてマトモに話せないような被害者
社会がそれを支持するだろう。

キラに頼んで殺してもらいたいような人がいっぱいだった。

監督がインタビューで言ってたが
この作品は、検察や司法のずさんさを訴えたくて撮ったものだということだ。
実際はもっとずっとひどいのだが、それを知らない人が見たら
逆に現実味が無くなるからソフトタッチにした。とも言っていた。
それを前提に見ると、さらに面白いかもしれない。

ルック&フィール

リッチなUIは、ルック&フィールをより一層際立たせることができる。

ルック&フィールでよく例えられるのは、ドアの取っ手である。
「押す」「引く」という札を貼っても、それを守る人は少ない。
何故なら、札を読み終わる前に行動が始まってしまうからだ。
もしくは札が目に入りすらしないかもしれない。
ところが、次のようにすれば誰でも迷うことなく行動できるようになる。
取っ手の形を変えてしまうのである。
押す側の取っ手は押し板にして、引く側の取っ手は残す。
目で見た瞬間に、とるべき行動が絞られるのである。

これはGUIの世界ではとても重要な課題だ。
使いやすさに直結するし、ユーザの間違いを減らせるからだ。

たとえばアイコンをあげてみよう。
アイコンは本来であれば、見ただけでそれがどういうモノあり、
どういう状態にあるか分かるためにある。飾りなどではない。
コンピュータのUI全ての存在に、合理的な理由とポリシーがあるのだ。

Ubuntu 6.10 (Edgy Eft) PPC

インストールは楽勝だった。
ISOイメージを焼いたCDを入れて起動。
この時点でLiveCDLinuxとして使用できる。
美しいGNOMEのデスクトップが現れ、「インストール」というアイコンが存在する。
これを起動するとHDDへのインストールが行われた。
anacondaと違い、設定等を訊いてこない。完全オートインストールだった。
質問されることは、HDDのパーティショニングと初期ユーザ名。

何故こんな簡易的なインストーラで良いのか。
Ubuntuはデスクトップユースだと思っていたので、
様々なアプリケーションがドカドカ入れられるのだと思っていたら
実はとてもシンプルな構成のインストールだったのだ。
emacsやsshですら、パッケージでユーザ自身が導入する。
Vine3.0の時に味わった、シンプルビューティーの考え方だ。
この時すでに、俺はUbuntuを好きになりかけていたのかもしれない。
因みに、最初に組み込まれるGNOMEやアプリはベースパッケージであり
要らないならパッケージを消す要領で消せる。消す必要性は無いが。

早速必要なパッケージを導入した。
パッケージはSynapticで直感的かつ簡単・安全に導入できる。
そして、rootになろうと思ったところで気づいた。
Ubuntuではrootユーザが無効にされている…

Ubuntuをインストールしたときのユーザ名が、事実上の管理者となる。
確かに、初心者にはこの方針は良いかもしれない。
OSXとまったく同じだ。必要であればsudoコマンドで管理者権限を持てる。
だが、不便なのでrootになれるようにしておこう。

$su root
Password: 初期ユーザパスワード
#passwd rootパスワード

こうしてしまえば、他のディストリビューションと同じ用に扱える。
Apache2を導入したら、Debianベースだけあってconfファイルの扱いが同じ。

うまくできている。
これで一発やってみるか。モチベーションのあがるディストリである。

Mac miniにUbuntuを入れる

以前はDebian GNU/Linuxをインストールしていたのだが
HDDがクラッシュしているような状態になってしまった。

2.5インチHDD。4200rpmとはいえ、夏の室温は40度を超える。
1年以上連続稼動させるのは難しかったのか。
夏に何度か熱暴走していたな。
そう思いつつ一度ゼロフォーマットしてOSXをインストール。
問題なく動いた…。

もしや…ReiserFSが悪さを…
そういえば人柱なファイルシステムだとは聞いていたが…
2GBを超えるサイズのファイルを扱うのは危険…だとかなんだとか
しかもPPCでの実装がまだバグありだとかでGentooでは敬遠される。

かといってOSXではUnicode3.0が使われていてファイルサーバに向かない。
システム的にはサーバとしては良いのだけれど勝手が悪いのは困る。

というわけで、今をときめくDebian系ディストリのUbuntuを導入してみる。
Debianのネットインストールは無駄が無いという意味で最高だったし
ぶっちゃけLinuxをデスクトップとして使うつもりは無いが、
いかんせんPPC対応のホットなディストリは珍しい。
たまには良いではないか。
しかし本格的にminiを使うならメモリ増設しないとな。256はツラス。

ためしにISOイメージを落として焼いて、起動してみた。
Ubuntuの起動音が鳴り響いた。
Debianではサウンド使えなかったので、ちょっと感動。

続きは明日。