「婚活をがんばるまえに、恋活を」
という見出しを見つけて、まったくそのとおりだと思った。。
表題の小学校は、我が母校である。
神奈川県厚木市森の里という、閑静な住宅地にある。
1990年頃の森の里小学校。体育館の下にピロティが存在した。
私が通っていた頃は児童数1020人くらいだったが
今では380人くらいだそうだ。相当減った。
もっとも、この学校は創立10年で1000人突破したものの、最初は3人くらいだったらしい。
私はこの学校のベビーブームに相当する年代と言える。
軽く計算してみた。
たしか、自分の頃は1学年5?6組あった。
クラス単位では、6人の班が5?6つ作れたので1組30人強。
1学年150?180人だった。
座席の配置はこんな感じであった。
黒板
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今ではおそらく、1学年60人強だろう。
30人クラスは無理があるので3組に分かれていると考えられる。
3組だと、1クラス20人。少ない。。
おそらく座席の配置もかなり変わっていると思われる。
予想されうる配置
黒板
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てか、あれだけ増築した教室はどうなっちまったんだろうか。。
(この学校は増築を繰り返し、初期の面影は創立5年で無くなっている)
▲水の輪公園から青学方面を望む 1990年
整地されたのみで開発が進んでいない。このあたりは1993年頃から開発される。
森の里地区は所謂バブル期のニュータウンで、近代的な建物やオブジェ、デザインされた構造物や公園が密集しているくせに、山を切り開いて作られたため常に土の匂いがして、沢から風が流れている、自然と都市の調和が売りであった。
当時は地価が高く、住民に変な人が居なかったため、治安が非常に良かった。山に囲まれており、外界との連絡路が限られていた点も貢献していたのかもしれない。住宅地で車が少ないため道路で縄跳び、サッカー、バスケ、ローラースケートをするのは普通で、地区全体が子供たちだけで縦横無尽に駆け巡れる遊びのフィールドであった。
どれくらい安心かと言うと、子供を一人で公園で遊ばせても何かあれば誰かが知らせてくれるくらいで、夏は玄関のドアを少し開けたまま昼寝できた。
地区に入居する家庭が、同世代が多かった、というのも独特な地域だった。
私は1990年にここにやってきて、初めて一般家庭でクーラーを見た。
個人住宅に設置されたエアコンを見た事が無かったので、神奈川はやはり違うと思ったものである。室外機が洗濯機並みに大きかった。
もう一つ驚いた事は、マンションと一戸建て以外の住居が無く、一戸建てに必ず庭と駐車場があった事だ。住宅公団が全て取り仕切っていたので、土地の広さと家のデザインがほぼ統一されており、オーナーの自由設計住宅は少数だ。
また、慣れの問題だが、広いニュータウンなので道が迷路であった。
不況の影響がじりじり迫ってきた頃、この地域にも浮浪者と呼ばれる方が見られる様になった。公園が多く、寝泊まりし易そうだからだろうか。子供たちは物珍しがったが、親たちは気が気ではなかった。
ある日、浮浪者に児童が襲われた。この児童が浮浪者の近くを通った際、目が合ってしまい、あからさまに嫌な顔をしたのが浮浪者の逆鱗に触れたようだ。この児童は小突かれて前歯が折れた。数日後、学校では緊急対策が行われ、浮浪者にみだりに近づくなという連絡がまわったり、地域中をPTAがパトロールした。ちなみに被害者は私の友人の弟である。
住宅価値の暴落に見舞われたこの時代であるが、それでも厚木市の中では比較的高地価を維持し続けた。土地付き建て売りの具体的な価格で言うと、1990年頃が抽選方式で1億弱で、1994年頃の中古が4?5千万程であったと思う。バブル期は住宅が値上がりしていたため焦って買ってしまい、重い借金を背負った家庭は沢山あった。退職金を全てつぎ込む人や、二世代ローンに移行している人もいる事だろう。
お金の話繋がりの話題もある。厚木市にはニュータウンがいくつかあるのだが、当時は最も新しいのが森の里であった。森の里へ投入される開発費(税金)は他のニュータウンのそれを凌駕しており、見た目や出来も高級になっていた。森の里の住民が増えれば厚木市の人口が増えるため、多額のお金が投入された。対照的に、他のニュータウンは開発が中止されたため、森の里のために自分達のニュータウンが「ないがしろ」にされたと反発した住民たちがいたのだが、その後どうなったのかは知らない。
バブル期は「研究学園都市」という都市構想のもと、モノレールが通り、大学があり、ハイテク研究所が建ち並ぶ地域になるはずであったが、見事に崩壊した。例えば、かの有名な青山学院大学の厚木キャンパスが少し前まで存在したが、今では日産の研究所になっている。住所名も神奈川県厚木市森の里青山というものであった。NTTの半導体研究施設や、栗田工業の研究所、日製産業の研究所は今でもある。(森の里の住民がそれらに勤めていた事は言うまでもない)
ちなみに青学は厚木市から撤退し相模原に移転した。距離にして数十キロ、移転する意味がよくわからないので様々な憶測が飛び交った。入学者が激減しており都会的なイメージで売り込みたいから、駅から遠いから、厚木で学生が事件を起こし過ぎたから、など諸説あるが定かではない。最も、都会的でオサレ(笑)な学生生活を夢見て地方からやってきた学生たちに、厚木キャンパスが不評であった事は間違いない。事実、彼らは東京に下宿して厚木まで通っていた。
▲ふじだな公園から全信連方面を望む 1990年
写真の通り、まったく開発が進んでいない。91年頃から大急ぎで建て始める。
森の里5丁目という地区で、一番地価が高い頃に売られた。
後発の開発地域なので自由設計の邸宅が多く、お金持ちが多いと噂された。
タイムアップ
なつかしい
俺あそこにしか住んでなかったからあれが普通だと思ってた
いいところに住んでいたんだなとわかったのは大人になってから。
とにかく静かだったと思います。
夏は窓を開けても平気でしたし。