恥ずかしさを嫌がるという事

恥ずかしい、恥をかく。
確かに嬉しい事ではない。
けれど、これらをあまりに恐れては自分の為にならない。
俺はそう思う。

というのも、恥ずかしくなる想像が容易な行動を
とれなくなるからだ。
例えば、失敗するかもしれない、良い成果は望み薄な行動だ。
しかし、失敗をせずに新しい行動などできるだろうか。
よく分からないことをするからこそ挑戦なのに
格好良く行うことなどできるだろうか。

格好わるくても、最後までやってみる。
恥ずかしくても、結果が出てくる。失敗してもいい。
行動しようとしない人は成長できないと思う。

もちろん、失敗に対して周囲が寛容になる事も重要だ。
失敗していい事なら、失敗していい。
恥ずかしい事に慣れてしまえば、大胆な事だって出来る。
誰かに迷惑をかけない恥ずかしさなら、慣れた方がいい。

問題は、恥ずかしいのが自分だけではない場合だ。
例えば、子供が恥ずかしい事をすると親も恥ずかしく感じる。
こういう時、人の器の大きい方が、小さい方に引っ張られる。

無論、無難を求める人もいるだろう。
あえて痛みを覚える行為はマゾに他ならないからだ。
しかし、行動できる範囲や物事への視野は確実に違ってくると考えられる。
大人と子供の差は経験量の差であり、
経験量は、生きた時間が長い程有利になるからだ。
つまり、決まった範囲の事しかしてこなければ、大人であったとしても
外因的に範囲外のことにぶち当たれば何も出来なくなる子供なのだ。

未来の自分は、間違いなく今の自分から構築される。
人生にリセットは無い。
過去を無かった事には出来るが、無くす事は出来ない。
周囲の人間や、記憶の片隅、人格という形で記憶されるだろう。
そしてその事実は、本人の意思とは関係なく立証されてしまう。
今を有意義に過ごせていない人は、空っぽの過去を持った未来の自分になる。
おそらくは未来に、他人からは直接指摘されずとも
積み上げてきた人を見て、自分からそれを実感してしまうのだ。

すこしくらい恥ずかしくったって いいじゃない。
笑われたって いいじゃない。
明日になれば、もうそれは終わった気持ちなんだ。

しかし今日は寒い。。