男女平等を真に実現する場合
人々の意識の中にある、感覚の差を埋めなければならない。
これは性差別を無くすことと同義かもしれない。
差別とは、誰かを、差をつけて区別したり、その人だけ特別扱いをすることだ。
差別とは、必ずしも偏見ではない。
例えとして、よくあるパターンを挙げれば
健常者に「感じないこと」を障碍者に「感じる」感覚がそれだ。
外国の人や文化、別の人種、年齢差、に対する抵抗感。
別の言い方をすれば、「自分の中の普遍」との違いを感じる事だ。
何故感じるのかといえば、人には自我というものがあるからだ。
自分は自分、自分は思う、だから自分なのだ。
人は自分を形作るために自我を意識し、アイデンティティを構築する。
アイデンティティが壊れれば、人は自分という存在を確信できなくなる。
自分が何者であるのか説明できなくなる。自己を失うとはそういうことだ。
具体的な例を挙げると、同じ地域に小さい頃からずっと住み続けて、
沢山の幼い頃からの知り合いに囲まれて大人になり、就職して同じ会社にずっといる人。
この人が、突然解雇され、やっと就職したはいいものの外国に一人で転勤させられ
今までと全く違う分野の仕事をやったら、アイデンティティを一時的に失うかもしれない。
「自分は一体」「自分は何のために」「自分は・・・」
人は自我を持つからアイデンティティがあり、未来に希望を持てるのである。
さて、フロイトの解釈によれば、差別はすべての人の無意識の中にあり
自分や他人が差別をして、糾弾されて、初めて意識することで
「差別」という記号について考えることができるそうだ。
それは、意識的に考えたり、思ったりして生まれる差や区別ではなく
人が無意識に感じる感覚だ。色や音や痛みや味といった、「感覚」だ。
結果的に人の行動に表れてしまうため、
人の集団である社会にも見えない形で必ず生まれる。
そして問題化し、何らかの記号化が行われる。
記号化された差別問題だ。
漫画「ブラックジャックによろしく」では
精神障害者に対して「気をつける」とか「優しくする」という行為は
まさしく差別であり、それが彼らの治療を阻害する社会の渦だと表現されていた。
これを性差別に当てはめてみよう。
究極で考えれば、先の「無意識の感覚」が薄れれば差別はなくなる。
つまり、男が女らしくなり、女が男らしくなり、
男の世界とか、女の世界とか、強さ、美しさ、可愛らしさ、
セックスアピールが無くなれば良い。
最終的な課題が生物学的な差だけにならないと、差別は残る。
現在の記号化された男女平等は、矛盾、偏りが出ることを大概の人は知っている。
男らしい男が女の領分に入り込んだり、その逆を無理やりやってるだけなのだ。
女らしい女が男の世界で生きて「あーつらい」と思ったりするのは当然だ。
これは単に見えるバリアをぶち破り、権利だなんだとお互いの主張で侵入しているだけなのだ。
形だけの男女平等などそんなものであり、文化というものがあるとそちらが優先される。
先日、男女平等度が日本より高く評価された中国を見てみる。
中国は人口が多すぎるため、一人っ子政策が推進されている。
この政策により、跡取りが欲しいがゆえ男の子を望み育てる家庭が多い。
結果的に人口の男女比が男に偏り、結婚できない男が増加中である。
こうなると女性は珍重され、特に若い世代では女性が特別扱いされ、男は立場がない。
女はより良い男を選ぶことが出来るため、男は死ぬほど勉強してより良い大学に行き
一生かかっても払えるか分からない家を若くして買わないと、まず結婚すらできない。
つまり、進学の時点で失敗すると人権を失いかねない。みんな必死だ。
女性も男性化してバリバリ働き、男に台頭するが、女性の女らしさは失われつつある。
中国といっても都市部と地方でかなり文化や習慣が違うため
地方では男性が圧倒的に女性より立場が上の地域も多い。
それなのに女が少ないので、地方の男が結婚できず、跡取りが作れないため
都市部の女性を誘拐し、子供を産ませて逃げられないようにする商売もある。
当然、当局は厳しく取り締まっているが、社会悪を必要とされている事が問題だ。
このように、国ごとの政治的、文化的、習慣といった要因が
性差別をより大きくしており、大きな事件でリセットでもできない限り、
目に見えない差別は取り除くことは出来ないだと思う。
しかし、目に見える差別はリテラシーで改善できるのかもしれない。
何をリテラシーすればいいのかはわからんが。