ポニョは、ハウルと同じで簡単一発で理解できる映画ではないと思っている。
恐らく一度目の視聴では、結局何が言いたかったのかわからない。
ただポニョが人間になってソウスケに会いに行き、
なし崩し的にハッピーエンドに収まるラブストーリーに見えるはずだ。
しかしそれでは物語が成立しない。起承転結の承が抜けているというか、
え?なんで?という状態になってしまう。
そもそも5歳児に一生相手を背負う恋愛はありえないし、
ソウスケの「好き」も恋愛とは違った描写がされている。
宮崎駿はバリバリの共産主義だし、いい歳で視点も変わってきた。
物語を難解にしてしまい勝ちなのかもしれない。
ポニョとソウスケが主人公だと、上記の思考の檻から抜け出せない。
ここでは、本当の主人公は子供達の両親ではないかという仮説で進める。
ソウスケの母親であるリサは、大人な親とは呼べない。
夫がいない寂しさで家事放棄。子供に気を使われてしまう始末だ。
子供には名前で呼ばせ、車は危険運転だし、食事はインスタントである。
台風で海水が迫っているのに子供を乗せてわざわざ危ない事をする。
実に情けない。(ちなみにこれは意図して描写されている)
同時にポニョの父親であるフジモトも、
自分の身の回りの世話もままならず(自室にカニの侵入を許す)
ポニョのわがままと暴走を食い止められず、
妻であるグランマーレに助けを求める情けない親である。
同時に情けない親が2人存在している事に気付くだろう。
ここで実は、子供を持つ親に見せる為の映画だと思わないだろうか?
台風の夜が明けると、リサが居ない。
ソウスケは何も考えずリサを探しに出かける。
ポニョはソウスケが好きなので助け続ける。
ソウスケもポニョは好きだが、世間知らずのポニョの世話を焼いているし
ポニョさえいれば良いわけではなく、常に母親を求めている。
この時点でソウスケの「好き」は恋愛ではないと解釈できるだろう。
子供は親の手の届かない所で、勝手に動いて勝手に成長してしまう。
でも子供には親の存在が重要であり、求める。
親はそれをそっと手助けする事しかできないのだ。
ということを客観的に表現すると、ポニョの映画がすんなり理解できる。
そんな気がしないだろうか。