固定観念の弊害

先日「彼女の作り方」を書いたが
そのついで。

理系な考え方なのだが
「○○は□□である」
という固定観念を、自分の中で勝手に何にでも当てはめていないだろうか。
と思った。

特に、常に変化するはずの人間に対して当てはめていないだろうか。と。

あの人は、○○だ。

という勝手な式を頭の中に作っている。
例えば、あの人はロックが好き、だからクラシックはダメ。
あの人はインドア派、だからスキーなんて苦手。
といったような感じだ。
でもこれ、凄く失礼な事だ。
その式に従わない事をするたびに、「意外」と言われる身になると思う。
ロックが好きでも、クラシックを聴きたいときは聴くし、
ひきこもりだって、やりたい時はスキーに行くのだ。

人の”イメージ”を作る責任は本人にもあるが、
その出来上がったイメージに行動を左右されるようでは未熟か。

また、固定観念を作る対象が人ではなく、物や事件でも
○○は□□というものなんだな、と思う事自体が危険だ。
そんなもの個人の勝手な妄想に過ぎない。
大人は頭が固くなるが、その原因はここにあるんじゃないかしら。。

これによって起こる弊害。
例えば会話や会議などで
○○は□□というものでしょ。だからそれは間違っている」
で、押し切る人は、まさに固定観念で物事を判断している。
自分の固定観念が妄想だと気づけず、
それをまるで社会の倫理観のような”全体的な総意”と同じような扱いをしてしまう。
– 自分はそうじゃない。
– 皆のことを代表して言ってるんだ。
– きっと他の人もそう思ってるはず。

そんなわけあるか。

少なくとも、言ってる本人はそれが正義なのだろう。
しかし言われる側から見れば悪だし、
理解してもらえない気持ちでいっぱいになる。

人と人が理解し合うには、価値観を一致させる必要がある。
でもそれは凄く難しいし、人生が違うのだから違ってて当たり前だ。
なら、相手の意見を納得しなくても了解すれば丸く収まるって話だ。
自分とは違うけど、それはそれでありなのね、と考える余裕があればいい。
それが、相手を理解するという事ではないだろうか?

言い方を変えれば、
友人だろうが恋人だろうが、自分のこだわりを相手に求めなければ良好な関係を築ける。
なぜなら、他者は自分ではないのだから。