○○○くん

幼なじみとは、お互いの呼び方に現れるものだと思う。

僕は生まれてから小学1年生いっぱいまで、
栃木県の宇都宮市に住んでいた。
2年生に上がると同時に、神奈川県の厚木市に移り住んだ。
宇都宮市では、元今泉という地区に住んでいた。
宇都宮をちょっと知ってる人なら「TSUTATA」の周辺と言えば分かるだろう。
ちなみにTSUTAYAは昔、フォードだった。
スーパー大谷と上州屋は昔から変わっていない。
…まぁそんなことはどうでもいい。

ともかく、宇都宮の頃は駅の近くという事もあり
マンション住まいだった。
賃貸ではあるが、やはり大型の集合住宅なので
結構な共益費(管理費)と住民組合があった。
だから何階に誰が住んでいる等、
当たり前のように知っていたし、ヤクザが入居した際は
大家に苦情を言うために、皆で詰めかけた。

普段は閑静な住宅街である。
僕の家は1階にあった。1階には2部屋しかなく
他はテナントで、売れないイタリア料理屋とオフィスだった。
(ここのピザ、好きだったけどさ。おっさん、いつも洗車してた)
1階のもう一つの部屋には、秋田からきた家族が住んでおり
僕と同い年の子が居たため、家族間で結構深い付き合いがあった。
料理を融通したり、子供を預かり合ったりだ。

もちろん、その子と僕はいつも一緒に遊んでいて、
部屋の間取りも隣同士だから左右対象になっているだけで
勝手知ったるものでお互い自由に行き来していた。

僕はその子には名前で呼ばれていた。
「○○○くん」
「○○ちゃん」
そう呼び合うのが当たり前だった。
お互いにずっと隣に住み続けていたら
なんて呼び合ってたんだろうか。

毎朝、幼稚園には1km近く歩いて行く事になっていた。
僕たちはマンション近くの集合場所まで、二人で歩いて行った。

幼稚園児というものは、冬の寒さで咳をする。
風邪を引いていなくても、朝は咳が出てしまうのだ。
咳をしながらも、ふざけ合ったり話は絶えなかった。
彼女の誕生日は5月。そのうえ女なので成長が早い。
僕は12月と遅く、しかも背が低いので背丈がよく話題になった。

たまに僕自身が嫌われることもあった。
しかし子供なので、すぐ仲直りした。

彼女は妹で、3つ年上の姉がいた。
やはり年上の兄弟が居ると、同世代とは思えない程に知識量が違う。
弟や妹は、兄や姉と同じレベルで普段の会話をしているため
語彙力や、悪口の準備も非常にハイレベルになる。
嫌われたときはもうそれは酷い言われようで、陰で泣いた。
確か、初めて言われて泣いた言葉は
「それがどうしたの?」
だったと思う。彼女は機嫌が悪いとすぐそう言った。

ちなみに、お姉さんは強くも優しいお姉さんだった。
日本人なのだがハーフじみた顔で長身な美人でだった。
実にお姉さんらしく振る舞ってくれるものだから
僕にとってもお姉さんで、遊びの中で色々教えてもらった。
光GENJIが流行っていた事もあり、よくローラースケートをした。

やがて、幼稚園から小学校へ上がった。
家が隣同士なのに同じクラスになってしまった。
この頃はできるだけ知らない人と同じクラスになるよう、
住所が近いと別クラスになるのが普通だった。
(社会性を学ばせるためだ)

学校で、相手を呼ぶ礼儀正しい言い方を学んだ。
―姓に「さん/くん」を付ける呼び方だ。
相手を名で呼ぶのは子供っぽいし、
他の人に聞かれると恥ずかしい。そう思いはじめた。

それでも相変わらず家は隣同士なので、遊ぶ機会は多く
近所の友人の妹が大きくなったので
女の子の遊びによく混ざっていた。
おままごとは当然として、リカちゃん人形遊びなどもしていた。
お人形遊びのできる男は珍重された。のか?

やがて、夏がやってきた。
生まれて初めてラジオ体操を経験した。
プールが解放されると、コウモリがプールに落ちて浮いていた。

秋になると図画工作でアケビを持ってくる子がいた。
腐って大変な事になった。

そして、冬がやってきた。

ある日、彼女の部屋で一緒に遊んでいた時に電話がかかってきた。
彼女の友人からだったみたいだ。会話が聞こえてきた。
「あ、いま○○(名)ッ…□□□(姓)君と遊んでるよ」

呼び名を言い直された。
大人な呼び方だ。何故か寂しさを覚えた。

二人とその周辺という狭くも優しい世界は、
大人という階段の踊り場に、置き去りにされようとしていた。

つづく。