自分に怒りを覚える。
それは、世に流されてるなと思うとき。
どこぞの首相が辞任。
すると首相が卒業した大学の入学倍率が下がる?
意味がわからない。
大学の願書とか・・自分の進路まで世間様の流行か。
まったくおめでたいものだ。
つまり、最初から行く気はないってことじゃないか。
それで決まった進路は、流行が過ぎ去った時点で断たれるわけか。
本人はその時は楽しいから、それでいいのかもしれん。
そんなこと関係ないって思ってるのかもしれん。
でも、それで将来仕事が無いとき
自分の社会的な価値に気づいたとき
その人たちのツケを俺が払う事態だけは嫌だ。
先のことを考えず生きてきた人は
食えなくなったら死んで終わり、で良いと思う。
そういう人たちを社会格差なんて言葉で甘やかすべきではない。
将来について考えない生き方を、選択するのは自由だ。
しかし、その結果を世に認めてもらえることは無いだろう。
人はただ、身の丈にあった生き方、生活をすればよい。
口悪く言えば
貧乏人は貧乏任らしく生きるのがお似合い。
金持ちは金持ちらしく生きるのがお似合い。
なのにだ、見栄とプライドのために背伸びする人がほとんどだったりする。
自分に不相応な誰かに憧れてマネゴトをする。
でも、中身の価値もそれ以上にならなくちゃ意味が無い。
プロゴルファに憧れ、でも上達そっちのけでクラブを買いあさる。
モデルに憧れ、肉体改造を忘れてその人の化粧品ばかり買いあさる。
別に買ってもいい。手軽だ。
でも本質を忘れてちゃ辿り着けない。
そゆ人は、それを理解できない。たぶん一生わからないまま。
逆に、本質のみを得ることができれば、モノは後からどうにでもなる。
匠は道具を選ばない。道具の良し悪しを自分の力で吸収できてしまう。
結局は最初から憧れなんて無いんだろうが。
憧れに近づいた気分になれればいいのだろう。そう、気分だ。
結局何が言いたいのかというと
そんなやつらの救済に使われてしまうであろう税金を
払いたくない ということなのだけれど。