空気読め 考察3

ときどきこのブログで登場するテーマ「空気よめ」であるが
これを誰かに言ったことはそうそう無い。言われたことはある。

空気読めの意味が理解し難く、納得いかないし気に入らないため
整理するために何度か考えた。そういうときにブログに書いている。
今回もまた屁理屈を書き並べようと思う。

人と人のコミュニケーションにおいて、空気とは雰囲気であることは
誰にでも分かることだ。ただ、この雰囲気というものが厄介なのだ。
雰囲気を感じるなんてことは、相当バカなヤツでない限り誰にでも出来る。
空気を読める人とは、その雰囲気を自分から次々に変えられる人や
険悪な雰囲気をぶち壊して皆を和ませたり出来る人だと思うのだが
実際に空気を読めと言われる人は、そういう人になれということではないだろう。

例えば、相手の利害を優先しない行動をとる人は必ず言われてしまう。
つまりその場の雰囲気を「保つ」ことに注力しろと言っているのだ。
本人がどれだけ問題であると感じ、気に入らない状況だったとしても
周りの人が楽しくなるためなら、自分を殺せと言われているようなものだ。
大人しくワクにはまれと言われているように感じることもあるだろう。

オレとしては、それに違和感を感じる人はそんなことする必要は無いと思う。
気に入らないことがあれば思うようにしたらいい。結果を決めるのは周りの人だ。
だが、周りの雰囲気に自分が合わせるのがあたりまえだと思っている人も多いため
そういう人とのコミュニケーションは辛いことになるだろう。

周りの人がいて、自分がいる。という考え方か、
自分がいて、周りの人がいる。という考え方か。

前者は女性に多い気がするし、後者の男性は多いと思う。
自分に少なからずコンプレックスがあり、ちょっとしたことで嫌われないかと
ビクビクしてしまうため、周りに気を使い認められ自分の存在を感じるのが前者だ。

対して後者は、まず自分がここにいる。それはいるのだから仕方が無い。
周りに人がいれば、当然ながらそれを認知するがそれだけだ。
誰かに好かれようが嫌われようが、自分の存在感は左右されない。

もしも前者であれば、周りの人に変に思われるリスクを負う行動は
絶対慎むのが当然と考える。更にそれを相手にも期待するだろう。
そして後者の場合は、そんなことは気にせず自分の利害を最優先に行動する。
ただ、その行動で誰かが拒否反応を起こせば、まずいと考え慎む。
しかし起きてからでは遅いと考えるのが前者だったりして。

認識の違いとはそこらへんだけなんだとは思うが
「空気読め」と言う人は大概偉そうで、しかもその発言で空気が凍る事がある。
言われた人は何様なのだという憤慨で、従いたくも無くなる。
空気がきちんと読める人はそんなことはまず言わないし、
本当に的外れなこと言う人を外側から軌道修正してしまう力を持っているだろう。
もっとも、そんな人はそう多くは無いと思うが。俺もそんなこと出来ない。

余談だが、空気読めは最近、ケーワイと言うらしい。Kuki YomeでKYだ。
相手に空気を読んでもらわないと我慢できず不機嫌になってしまう若者の言葉だ。