9月です

 9月になりました。

 長野では、セミが鳴いているのに一部の木の葉が赤や黄色になりはじめているという奇妙な体験をしています。朝は寒いので半そででは寝られません。

 電車男を見ていたら、エスパー伊藤がエレクトリカルパレードと共に登場しました。エレクトリカルパレードはめちゃイケだけだったのでは…。最早エスパー伊藤=エレクトリカルパレードなのでしょうか。しかもなんか、あいつカバンから出てきました。おかしいですよっ
 はぎゅっ

 しかも俺の陣釜さんが大暴走です。悪女もあそこまで行くといっそすがすがしい。電車男は簡単に先の読めるドラマですが、いつのまにかトレンディドラマっぽくなっております。萌え。

http://www.oxiare.net/fashion/f-otaku-list.html

読んでたら叫んでた。うがー

 空気を読むという考え方がある。
 空気を読むとは、その場の雰囲気を洞察力で知り、雰囲気にそぐわない行動をとらないように気をつけることだと理解している。これが良識の範囲でなら難しいことではなく、集団行動をしていれば小学生でも無意識にこなしている当たり前の考え方である。つまり「空気を読む=他者へ気を使う事」と考えられる。

 しかし、これが行き過ぎると次の事態が起きかねなくなる。他人と関わり合う時、周りに合わせることが自分の生き方のようになってくるのだ。常に周りに合わせて合わせて合わせて、それが普通になってしまう。けして自己主張ができなくなるわけではないが、無意識に気を使い自分を押さえ込む必要もあるので他人のとかかわりがめんどくさくなってくる。そこで更に他人との間に問題をつくらないための「気遣い」が発生する。

 この状態が「他人からは悪く思われない」と思ったら大間違いで、他人から見たら、その人は「自分は他人なんだなあ」としか思えなくなってくる。何故なら”気を使う事”は、たいして親しくない”他人”に対しての行動だからだ。そして、気を使う行動を「無意識に」行ったとしても、他人から見ると「気を使ってくれている…付き合いづらいのかな」と思われてしまう。例えばドアを開けたときに手で押さえておくとか、タブーを避けた違和感ある会話とかでもすぐ感じるものだ。

 空気を読むことは、大切なコミュニケーションの方法である。しかし、それが行き過ぎなくても、相手の受け取り方によっては逆に悪印象を与える可能性もあることを頭に入れておかなければならない。また、それが常識になってしまうと、マイナスな雰囲気を鶴の一声のようにぶっこわすこともできなくなるかもしれない。場にそぐわない発言が薬になることもある。

 更に言うと、空気を読んでもらうことを期待してはならない。空気を読んでもらうことを期待するということは、自分が何らかのタブー要素を持っていて、他人に気遣われたいという甘えの証拠だからだ。よく言われる女性特有のコミュニケーションの概念には、ここのところが深く関わっている気がしてならない。女性の洞察力は恐い。

 阪神の応援席で、巨人の応援をするのは空気が読めていない証拠かもしれない。しかし、それがわざとであれば思う存分応援するのが正解だと思う。正義とは勝者のことであり、そこでボコボコにされたら負けだが、阪神の応援者が気を害して逃げたら勝ちである。すなわち正義だ。それが競争、生きるということなのではないだろうか。生きることって、闘うことでしょう?ジュン。阪神と巨人の応援合戦が共にはじまったら引き分けでマーベラス!!

 他人の事ばかり考えてないで、自分の幸せのためにある程度の犠牲(他者への迷惑)をはらう覚悟は要るかも知れない。そして迷惑をかけられたら戦わなければならない。恋愛が当にそれで、どっちに転がっても相手や自分が傷つくことがイッパイ。避けて通ろうとするほうがおかしいと思いますがいかがかな。

 で、これを実践しているのがオタク。オタクともなると、他人に合わせる=悪とまでなりかねないので、それ程でもないかも知れないが。