ちゅうがくせいになりたいなう

最近のゲームやアニメでは、作品の舞台設定を1980年代にしているものが結構ある。
あえてその設定を示唆、明示していなくとも、
何となく古くさい印象を受けたなら、裏設定として存在している場合がある。
なぜ1980年代だ と都合が良いのだろうか。

思う所、大人向けのアニメを見る世代は、70年か80年代生まれ。
1980年代に子供時代を過ごしている。
ノスタルジーによる親近感や、味わい深さを醸す一種の感動要素なのかもしれない。

感動の要素とは、「多くの観客に共通する気持ち」だ。
それを作品のテーマにとりあげると、大抵の人は感動する。
誰にでも起こる事件、例えば「恋愛」や「生と死」が使われる事が多い。

ニコタは、「リアルの情報は必要ない限り出さない」という暗黙の了解がある。
あくまで仮想タウンの平等な住民として楽しむようになっている。
自己同一性(自分の個は常に1つだけ)を求めるなら全くバカバカしい仕組みだが、
人は常に仮面を持っている(自己多様性)と考えれば楽しめる。

私の経験によると、沢山の知り合いがいるような自己多様性に富んだ人は、
「秘密や隠し事」が多い。
相手により、伝えている自己の情報に差がある(仮面を使い分ける)からだ。
それは信頼していない相手とも付き合える、メンドクサイ人とも言えるのだが。

処世術として仮面の使い分けを日常的に行っている人は多いものの、
仮面にギャップがある人は凄く苦手。信用できないのだ。
当人は仮面の使い分けが「バレ」てないと思っても、
第三者を経由して相手に情報は伝わる。
周囲の人同士の繋がりは太いもので、何も言わないだけで知っている。

逆に海外で盛んなSNSのFacebookなんかは自己同一性を重要視している。
だからこそしっかり意識して使わないと大変な事に…。
ネットだろうがゲームだろうが、リアルの自分を反映したものなのだ。

Mixiはどちらの使い方も出来るが、サービスが閉鎖的だ。
グローバル志向な人であれば全世界と自分はリアルに接して当然なので、
なぜ閉鎖的にするのか不思議に思うだろうな。