気にする事 気にならない事

人は、相手のことが好きか嫌いかで、
その人がしたことを好意に思ったり、悪意に思ったりする。
違う人がまったく同じ事をしても、受け取る側の先入観に左右される。
(ここで重要なのは、先入観はその持ち主が勝手に作り上げるという点だ)

小泉元首相と麻生首相が同じ事をしても、マスコミや世間の反応は全く違うはずだ。

ある程度人生経験を積み、外の世界で様々な人に揉まれると
だんだん自分からその事実に気付いてくる。
責任を重んじるようになるため、相手を責める前に自分を責めるようになるからか、
社会性や仕事の品質確保に必要な「客観的な見方」を身につけるからだと思う。

しかしながら、すると「善悪」の真実とは何ぞや?という問題に直面する。
そう、「善悪」は受け取る側の勝手な判断に委ねられるからだ。

結局は、相手がどうしたかではなく、自分がどう思うか、で帰結するのだ。
国際的な国交も、国内世論も、人間関係も、家族仲も、全てそうだ。
ご近所付き合い、小学校のいじめ問題、果ては中東問題も、それが原因だ。

しかしそれを放置すると全員が正義となってしまい秩序が崩壊するから、
話し合いの場があり、憎い相手でも決裂が前提でも話し合い、譲歩せねばならないし
地域毎に憲法や法律が存在せざるを得ないのだ。

社会性を尊重し、他者に迷惑をかけたく無ければ、
個人的な考えは慎めということだろう。当然の事だ。