世の中には、カタチの無いものがあふれている。
この場合のカタチとは、物理的な存在ではないという意味だ。
こと最近は、膨大なディジタルデータが高速にやり取りされている。
このデータ一つ一つに、それなりの価値がある。
例えば、基本的なデータとして画像・音声がある。
昔は写真と言えばつるんとした紙しか思いつかなかった。
紙が残る限り像が残ったのだ。
しかし今の殆どの若い人は、おそらくデータで所有しているだろう。
デジカメはもちろん、ケータイで撮影したものも多いだろう。
音声だって、昔はメディアと一体である事が当然だった。
例えばカセットやCDが壊れれば音声は聞けなくなり、新しく買うしかなかった。
今ではそれらは完全に分離され、音声データさえバックアップしておけば
メディアが壊れても交換でき、メディアの種類を選ばず好きに扱う事が出来る。
つまり昔は、データをカタチある物体として扱えていたのだ。
データにはカタチが無い。
カタチが無いからと、カタチのあるものと違う扱いにして良いのだろうか。
バーチャルの物として一蹴して良いのだろうか。
先に言ってしまうと、今はカタチの無い物を作る時代であり、
物体である事の有無で価値が変わってはならない。
しかし、生産時に原価のかかる物体と違うのは間違いない。
情報は一度作れば、同じ品質の大量生産が可能で
コストも無視できる額であり、しかも短時間で完了する。
つまり情報の事なのだが、情報に対して需要と供給の関係が成り立ち、
情報を作り転がす事で付加価値が上がり、経済活動として生産するのだ。
今や、カタチの無いもの”データ”はとても大事な、
一生の思い出のアルバムになるかもしれないものだ。
しかし問題もある。
既に卒業アルバムはCD-ROMでの提供になっている学校もあるかもしれない。
その場合、世の中からWindowsが消えたらゴミになる。再生できないからだ。
データは適切なハードウェアの上で初めて使用できる。
それに対し、カタチあるものは人間自身の五官で再生可能だ。
人の五官は永続的に変わらないだろうが、コンピュータは違う。
完全に経済最優先で、常に変化していくものだ。
しかし、その大事なデータやハードを保管して行く仕組みを
私は知らない。
情報の重要性に対して、それを保護する仕組みが追いついているのだろうか。
周知も教育も、個人任せになっている。
企業はこれを解っていて、巨大なデータセンターを利用するなり
所有するなりしているが、データセンターの環境負荷は非常に高くコストも膨大だ。
個人レベルの話をだすと
20年前のレコードは再生できるが、CD-Rは20年後に聴けなくなるだろう。
一般的なディジタルメディアは長期保存を前提に作られていない。
ではどうすればいいのか
ディジタルデータ最大の特徴である、複製をすればいい。
つまり常に新しいメディアにコピーして行く事が重要なのだ。
データセンターでも、大まかに見ればそういう事をし続けている。